出島『長崎観光』和と洋の歴史

長崎観光。和と洋の歴史が重なる出島

出島は、長崎を作り上げる重要な基盤を創りだす。
ポルトガルを始めオランダ貿易など西洋文化を取り入れ多くの歴史を作り上げた場所。

とっても有名で歴史の教科書にも出るほど長崎のみならず、日本に影響を与えた小さな島。

出島の歴史は、江戸幕府が関わる

江戸幕府が鎖国一環のため、1634年〜1636年の2年間に作った人口の約1.3ヘクタールのさほど広くない島で、出島の形は皆さんもご存知の扇型。貿易の発展を願い『末広がり』にあやかったようです。

元亀2(1571)年にポルトガル船が入港後、ポルトガル人、スペイン人など諸外国との貿易の時代が続いた。そうした交流から南蛮文化が長崎の街に溶け込んでいったのでした。

秀吉は元々キリスト教に寛容だった

土佐(高知県)にスペイン船サン=フェリペ号が漂着

秀吉はキリスト教に寛容だったが、文禄5年(1596)土佐にスペイン船サン=フェリペ号が漂着した際の「スペイン国王がキリスト教布教により他国を征服する(諸説あり)」の言葉が秀吉を激怒させた。

幕府はキリスト教の広まりを恐れ、キリシタン弾圧が始まる。

島原の乱

1637年 〜 1638年(寛永15年)【島原の乱】が勃発!

歴史上最大規模となる農民一揆【島原の乱】首領を益田四郎時貞(天草四郎)とし、島原の原城を起点に幕府のキリシタン弾圧に対抗した。
これをきっかけに幕府は更なるキリシタン撲滅への道が加速する。

しかし、魅力ある西洋貿易を幕府は止める事に抵抗があった。そこで、出島にポルトガル人を移住させる制度ができたのだ。

ポルトガル貿易からオランダ貿易へ

約200年に至る 西洋貿易

1639年(寛永16年)幕府は長崎奉行や九州地方の大名に「第5次鎖国令」を発布して、ポルトガル人を出島から退去させた。

その後ポルトガルが長崎との貿易を再開するために使者を送る、それを幕府は処刑したことから出島は無人状態に陥った。
幕府は、東インド会社を平戸商館から出島へ移転させた。

1641年から1859年の長い年月に渡りオランダ貿易が行われ、江戸幕府が命じポルトガル人を隔離する目的だった。
始め長崎の有力者の20数名が築造費を出資。
のちに土地費用として、ポルトガル人が年間80貫を支払う形でしたが、
ポルトガル人からオランダ人が住むようになり55貫と引き下げられたとあります。

そうして、約200年の年月の間、西洋貿易を交わす。

蘇る出島

昭和26(1951)年から復元整備が進められた

現在、建物が復元されていき、当時の町並みの様子がみられます。

出島の建物

建物には、商館長が住むカピタン部屋、副商館長が住むヘトル部屋や商館員の部屋、貿易品を保管する倉庫など40~60軒の建物が立ち並ぶ。

平成29(2017)年11月に復元完成した「出島表門橋」完成

出島表門橋

表門には番人の姿がある。人々の出入りを監視し、出入りが厳しい。
とにかく厳しいのだ!

しかし!現代の門番は優しぃ〜♪ にこやかに微笑んでくれたりします。

カピタン部屋

カピタン部屋

阿蘭陀冬至(おらんだとうじ)」というクリスマスの風景

阿蘭陀冬至(おらんだとうじ)
阿蘭陀冬至(おらんだとうじ)部屋にはテーブルがあり当時の宴として、牛肉の塩漬け、鳥の唐揚げなどのご馳走が模型なって並ばれており、先人たちのクリスマス風景の雰囲気を楽しめます。

旧出島神学校

旧出島神学校
明治11年(1878)築、
現存する日本最古のプロテスタント神学校「旧出島神学校」
現在は「出島史料館」

旧長崎内外クラブ

旧長崎内外クラブ
1903年(明治36年)
長崎に在留する外国人と日本人の親交の場とされました。

1階は長崎の食べ物を扱うレストラン、2階は居留地時代の展示スペース。

出島表門橋公園ミッフィーを探せ♪

出島といえば、オランダ オランダ生まれのミッフィー

オランダで生まれた世界的キャラクターのミッフィーが、かくれんぼ!?

出島表門橋前の出島表門橋公園に潜伏キリシタンならぬ潜伏ミッフィー?が隠れてる!
全部で9つあなたは全部見つけれるかな??

出島周辺イベント

出島周辺イベント

 

出島情報

場所 長崎市出島町6-1
営業時間 8:00~21:00  (最終入場 20:40)
入場料
個人 団体
大人 510円 410円
高校生 200円 120円
小・中学生 100円 60円

団体15名以上

駐車場 なし
お問合せ TEL 095-829-1194

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